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「旅館かと家」が創業した正確な年代は分かりません。
しかし、かと家がある現在の小美玉市堅倉は、かつて五街道に次ぐ交通の重要路線・水戸街道に面した宿場町、片倉宿として大いに賑わった土地でした。
今も残る江戸時代の「旅人改帳」には、当時片倉宿には角屋(現かと家)の他、桝村屋、梅屋、長嶋屋、桝屋、巴屋、瀧田屋、新富屋、升野屋、扇屋の10件の宿屋があったと記されています。
そのような資料から、遅くとも江戸時代末期には既に今の小美玉市堅倉の地で、旅館業を営んでいたことが確認できます。
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江戸幕府の大老井伊直弼が水戸の浪士らに暗殺された「桜田門外の変」の翌年、文久元年の旅人改帳には、以下のような宿泊者の記載が残されています。 |
文久元年(1861年)酉十二月 旅人改帳
五日 角屋 松平播磨守領分 常州新治村府中宿 岩助
勇助
水戸泉町広小路 政之助
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時代を経て明治になると、地元紙・いはらき(現茨城新聞)の記事に、角屋の名を見つけることが出来ます。
明治25年3月18日の「いはらき」には前日小美玉で行われた民党政談演説会の懇親会が角屋で開かれ、犬養毅や大津淳一郎など当時の大物政治家が出席したことが記事になっています。
続く31日の同紙にも、27日に再び政談演説会が行われ、角屋で懇親会が開かれた様子が記事になっています。 |
かと家には、近代朝鮮の政治家・金玉均の扁額が残されています。明治20年代、日本に亡命した金が、親交のあった堅倉出身の実業家・井坂中夫の葬議に犬養毅と共に訪れた際、宿泊し書き残したものと伝えられています。 |
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額には上のような言葉が残されています。落款がありませんが、あわただしく訪れた葬儀の際に書かれた為と推測されます。 |
参考文献:小美玉町史 |
往時の姿を今も残す「かと家 旧館」
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※建築業者の不良工事により内部未完成の為、
現在は住居として使用できません。 |
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